本能と感情

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保育園の先生をしている友達と
久しぶりにお茶をして語った

保育の現場の裏側
教育の名のもとの理想と現実

今、東京都でも待機児童0を目指して
保育園の増設にとりかかっている
ただ私は常々
保育園増設という動きに疑問を感じている

保育園は必要だろうか
本当に必要なのは子どもを預ける場所なのだろうか
せめて子どもが3歳になるまで
母親が子どもの傍にいられるような
サポートやシステムがつくられないものだろうか

私のシンプルな疑問に対し
現場で働く友達はため息交じりに答えた

「そうだとは思うけれど
 それでも保育園を必要としている人がいる
 どうしても育児がうまくいかない時もある
 ほんの少し、子どもから離れ
 自分の時間を持つだけで
 ずいぶんと助かる人がいる
 そんなママたちを私は助けてあげたい」

実際に生の声を聞いているだけに
その言葉には深みが感じられた

彼女はさらに大きなため息をつきながら続けた

 「だけどね
  高いお金を払って子どもを預けて
  働くこともなく
  独身の時のように過ごしている人もいるのも事実
  園の取り組みや教育方針にも
  文句を言わないどころか関心さえ持たない
  なんかそういうの、違うよね
  だけど、こういうところが
  ビジネスになっちゃうのよね
  なんか、おかしいよね」

保育園を必要としている人たちがたくさんいる
必要とする理由も様々なようだ
育児の方法は人それぞれならば
時間やお金の使い方だって個人の自由

だけど、一つ言えるのは
子育てを他人にまかせる生き物は
恐らくホトトギスやカッコーの部類の鳥と人間だけだろう
しかしそれらの鳥の仮親の習性は
遺伝子に組み込まれているもの
「本能」である

ホトトギスやカッコーは
自分より体の小さなウグイスなどの親鳥が巣を空けた隙をねらい
ウグイスの卵を一つ抜き取り
自分の卵を一つ産み落とすらしい
ウグイスの卵が孵化する前に
自分の卵が孵化するタイミングで行うらしい
親の役目はこれで終わり
成長した雛を取り戻しに来るとか
会いたい、寂しいなど
そういうことはないらしい
非情なのではなく
単にそう組み込まれているかららしい
これが産みの親

では、生まれてくる子どもはというと
孵化した雛は
仮親が巣を空けた時に
まだ弱弱しい体であるにも関わらず
翼を使ってウグイスの卵を全て巣の外に落とす
体の大きな雛に十分な食料が渡るように
本当の雛との違いがばれないように
これもまた生き延びるための「本能」である

そして仮親はというと
成長して自分よりどんどん多くなる雛を
愛情を持って育てるという
わが子どもがいなくなって寂しいとか悲しいとか
そういうことはないらしい
「巣の中の卵を育てる」
それが親鳥に組み込まれたプログラムなのだという

では私たち人間はなぜ
他人に子どもを育てさせるのか
それぞれいろいろな事情や思いがあっての選択には違いない
ホトトギスやカッコーと違うのは
私たちには組み込まれた母親としての「本能」と
「感情」を持つ生き物だということ

本来ならば「本能」は絶対であるべきなのに
「感情」というものは実に曲者で
外部の刺激によって多様に揺れ動き
時には本能さえ機能させなくなる

保育園は必要なのだろうか
保育園ではない何か別の方法はないのだろうか

今や本能のままに生きられない
複雑にねじれて歪んだ人間社会は
どのように人の生き様を左右し
どのように子どもの成長に影響してくるのか

私は不安でたまらない

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